井草八幡宮 善福寺公園そばにある大きな八幡宮

井草八幡宮の青梅街道側の口 井草八幡宮
井草八幡宮の青梅街道側の口

大通りに面して大きく口を開いている神社は、夜中に前を通りかかると恐怖を感じませんでしょうか?

井草八幡宮

越谷オサム『陽だまりの彼女』原作では、善福寺公園とセットで名前が登場した井草八幡宮。明治時代までのこの神社の名称は、「遅野井八幡宮」であったそうで、遅の井の池と呼ばれていた善福寺池とは、古くからの関係がありそうです。
三大湧水池はどれも自然の湧水池であり、古代からその場所に存在していたということは何度も書いてきていることですが、窪地にある善福寺池から見て、井草八幡宮の境内は南向き斜面の土手にあたります。湧水を生活利用する地形として最適であったようで、この場所から縄文時代中期の住居跡や土器が発見されており、その遺構が時代を経て神社のような祭祀の場所になったのかもしれません。

井草八幡宮の縁起

神社としての井草八幡宮の縁起では、創建年代は不詳であるとされています。本来は春日神を祭っていた神社であったところ、源頼朝が奥州藤原秀衡征伐の折に立ち寄り八幡神を合祀、その後時代を経て春日神と主客が逆転して祀られるようになったそうです。ちなみに、この源頼朝が遅の井の池の命名に関わるエピソードをもっているということは、既に紹介済みですね。
後年、石神井城の戦いで豊島氏を攻めた太田道灌が、やはりこの神社に立ち寄り戦勝祈願をしたと言われています。戦勝祈願というと八幡神のイメージが強いですから、その時代には既に主客の逆転があったか、もしくはこのエピソードが逆転のきっかけとなったなど想像を働かすことも出来そうです。

井草八幡宮と青梅街道

井草八幡宮が現在のような大規模な社殿を持つに至った経緯は、江戸幕府成立後に三代将軍徳川家光が行った寄進にあるようです。遡って1603年には、江戸の街を大造成する際に青梅で採掘する石灰を効率的に運ぶ道として青梅街道が整備されています。街道筋の神社に恥じない、相応の規模の社殿にしようという考えの他に、湧水マニアであった家光が遅の井池の場所を分かりやすくしたかったのかもしれません。家光は井の頭弁才天の再建や井の頭池の命名なども行っていますね

井草八幡宮の青梅街道側の口

井草八幡宮の青梅街道側の口

新編武蔵風土記稿にも、上井草村の鎮守の八幡宮として記載があります。新編武蔵風土記稿で思い出したのですが、家光が社殿を寄進したおりに善福寺の善福寺は存在していたのか、それも気になりますね。

縁起が多少荻窪八幡宮と似ているところも…

さて、同じ青梅街道に口を開いている八幡神社として、荻窪八幡宮という神社もあります。こちらの神社の縁起を紐解いてみると、創建年代不詳で、源頼義の奥州安倍貞任討伐のおりに戦勝祈願があり、後年太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めるにあたりまた戦勝祈願をしたなどと、どこかで聞いた内容のバリエーションのように聞こえなくもありません。
勿論、軍勢が神社の境内地を戦陣とすることは珍しくないので、東国の戦の折にそこかしこで戦勝祈願があってもおかしくないのですが、1kmほどしか離れていない2つの八幡社でのエピソード。混濁があったか、あるいは弘法大使の袈裟掛け松のような、典型を用いた後付けエピソードのような気もしないでもありません。

井草八幡宮の例大祭は毎年10月1日を本祭とし、前日に宵宮、日曜日には神輿が出ます。また、3年おきに神幸祭が、5年おきに流鏑馬があります。なにしろ杉並区最大となる広い境内に、露店も200件以上出るようですので、駅から遠いのを我慢して、善福寺公園と一緒に訪れてみるのも面白いかもしれません。

コメント

  1. […] まず、善福寺公園の青梅街道側の口とも言える、井草八幡宮の桜を。 […]

  2. […] ピンクの象が登場したのは、ゆるキャラブームなどが始まる遥か以前の昭和50年頃。当サイトで井草八幡宮と一緒に紹介した、荻窪八幡宮の子供用神輿として考案されたものであるようです(つまり、由緒正しい神道の曳きものとなるわけですか)。 作ってはみたものの、置き場所がなかったので、丁度完成していたアーケード街の天井にぶら下げ保管することにしたとか。ピンクの象の真下付近には、考案者となった西荻餃子さんの店舗があります。 […]

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