第26回照姫まつりの開催要項 そして照姫って誰?

桜の狂騒が終わり、公園の主役が新緑へと変わるこの季節。気になり始めるのは、毎年4月28日周辺の日程で行われる、石神井公園の照姫まつりです。

照姫まつりの概要については、昨年石神井公園の紹介をした際に触れましたが、照姫とは石神井城を有していた豊島氏の悲劇の姫です。石神井城が太田道灌に攻められ落城するときに、三宝寺池に身を投げた父豊島泰経の後を追って入水したという伝説があります。

この照姫を太田道灌が弔い、塚を建てた。これが姫塚と呼ばれ現在もある塚で、この傍らにある照日の松と呼ばれる松に上ると、豊島泰経と一緒に沈んだ金の鞍が池の中に輝いて見えるという、ちょっとした財宝伝説にもなっています。

ところがところが、この照姫という姫は豊島氏関連の系図に存在が確認できません。また父の豊島泰経についても、石神井城の落城時には死んでおらず、その後の小机城の戦いに元気に参加しているのです。

つまり、この照姫の伝説は史実とは全く関係ないところから現れ、豊島氏に連なる伝説としてのポジションを獲得してしまったのです。

この照姫伝説がどこからきたのか。豊島氏を研究する学者がそれぞれに説を打ち出しています。豊島氏の研究や練馬の郷土史、庚申信仰などについての著書がある故平野実氏は、昭和になって豊島氏に連なる系図を持つと自称する人物により、塚の由来に今日のような説明が結びつけられたことを示唆しています。

最近の研究では、2005年に出版された『豊島氏千年の憂鬱』という書の中で、著者の難波江進氏が明治時代に発表された創作『照日の松』からの影響を指摘しています。遅塚麗水という小説家の『照日の松』では、太田道灌と旅中に出会った照日姫がやがて豊島氏に嫁ぎ、道灌によって滅ぼされる豊島氏と運命をともにするという筋書きになっているそうです。

照姫伝説が何も無いところから出てきたのか、あるいはごく小さいものでも何か関連する歴史的事件のある伝説なのか。財宝伝説も絡んだ複雑な伝説になっているので、なんとも難しいですね。

個人的には、この照姫という姫の名前に小栗判官に出てくる照手姫との近縁を感じます。小栗判官といえば、熊野信仰のマーケティング的要素のあるストーリーですが、豊島氏も熊野信仰に多いに関わる氏族で、領内にたくさん熊野神社を作っています。そこに何かしらの伝説の下地があったのかもしれません。
また、三宝寺池に祀られる弁天ですが、遊女の信奉を集めることで有名、各地の弁天池には遊女や悲恋をした女性などの入水伝説がついてまわります。さらに遡ると雨乞いの人身御供にも通じるところなのでしょうが、とにかく弁天についてまわる伝説の一つとして照姫の伝説のベースが出来上がって行ったという経緯も想像できます。

伝説の真偽や細部はどうであれ、現代にもこうして照姫まつりとしてストーリーが語り継がれているのは面白い事ですね。照姫まつりは4月28日(日)の午前10:00〜15:30の開催です。

照姫まつり公式サイト

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難波江進/豊島氏千年の憂鬱

コメント

  1. […] 石神井公園が登場するのは、旧コミックス版3巻の『石神井城異聞』という話。タイトルから期待できるように、もちろん石神井城や豊島氏や財宝伝説が関わってくる話です。そして、この話の結末で三宝寺池の財宝として出て来るものは…過去と未来を広範な知識で繋げるこの作者らしく、30年経っても風化しない結末に驚いて下さい。 […]

  2. […] 桜が咲き始め、ようやっと春の実感も湧いてきました。そして、今年も石神井公園で行われる照姫まつりが待ち遠しくなってきました。 照姫まつりとは、石神井公園でだいたい4月の終わり頃に行われる、石神井城の戦いをテーマとした祭です。照姫というのがこの戦いで三宝寺池に身を投げた悲劇の姫と言われているのですが、よくよく調べてみると…といったところの話は、昨年記事にしていましたね。また、照姫伝説を題材とした漫画として、細野不二彦『東京探偵団』の『石神井城異聞』を紹介していました。 折角ですし、今年の照姫まつりを間近に控えて、今度は照姫伝説を描いた”連載中の”漫画を紹介いたしましょう。 […]

  3. […] このサイトでもしばしば取り上げている照姫伝説ですが(紹介記事、関連作品1、関連作品2)、その物語を楽しみたいという場合には、出陣式における寸劇を見るのが良いでしょう。出陣式前後にはステージ前が非常に混み合いますので、午前中の行列の出発を見送ってから場所取りに動くのも一つの手であるかもしれません。 […]

  4. […] 神社としての井草八幡宮の縁起では、創建年代は不詳であるとされています。本来は春日神を祭っていた神社であったところ、源頼朝が奥州藤原秀衡征伐の折に立ち寄り八幡神を合祀、その後時代を経て春日神と主客が逆転して祀られるようになったそうです。ちなみに、この源頼朝が遅の井の池の命名に関わるエピソードをもっているということは、既に紹介済みですね。 後年、石神井城の戦いで豊島氏を攻めた太田道灌が、やはりこの神社に立ち寄り戦勝祈願をしたと言われています。戦勝祈願というと八幡神のイメージが強いですから、その時代には既に主客の逆転があったか、もしくはこのエピソードが逆転のきっかけとなったなど想像を働かすことも出来そうです。 […]

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