2015年7月に、『火花』で第153回芥川賞を受賞し、小説家としての顔も有名となったピースの又吉直樹氏。受賞後は様々なメディアでインタビューに応え、『火花』に出てくる喫茶店のモデルが吉祥寺の武蔵野珈琲店であったことや、小説執筆の場所として武蔵野珈琲店の窓際一番奥の席をよく使っていたと答えていました。
『火花』の聖地となった?武蔵野珈琲店
以来、武蔵野珈琲店は又吉ファンの聖地となったのか、吉祥寺を特集する雑誌などでほぼ確実に紹介される注目喫茶店となりました。けれどもそもそも小説執筆の場所として武蔵野珈琲店が選ばれたのは、客層が静かで、喧噪から離れた聖域のような喫茶店であったからではないのか、それが注目喫茶店となってしまったことで、又吉氏が見出したような価値はすでに失われてしまったのでは…?
そのような疑問を抱いたため、小説が芥川賞に選ばれてからしばらくは行ってみたいという気持ちと、行っても何も得られないのではないだろうかという気持ちの間で葛藤がありました。
そんなわけで、武蔵野珈琲店に足を運んだのは受賞の熱狂も一段落ついたであろう頃合。平日の夕方に書き物仕事を抱えて行きました。
七井橋通り脇の建物2階に
武蔵野珈琲店があるのは、吉祥寺駅から井の頭公園に向かうおそらく一番有名な通りである、七井橋通り。丸井の右側の入口から始まって、金の猿といせや公園店の向かい合わせを越えて公園に入る道です(かつては、アイスクリームのドナテロウズなどもあったりしましたが)。
七井橋通りには多国籍な雑貨店や多国籍な料理店が並んで、さらに最近は行き交う人々の会話も多国籍です。平日に行こうがお構いなしに賑わっているのは、やはり海外から長期休暇を取って観光にやってこられる方が多いからだと思います。
雑貨屋の入居したビルの真ん中にある階段を上っていきますと、看板表示が。武蔵野珈琲店、すぐそこです。
扉を開けると、立派な存在感のあるカウンターと、想像していたより広めの店内。オフピークだったので満席率は5割くらいだったでしょうか。机のある席を希望すると伝えると、カウンター正面の2人用テーブルに案内されました。
このカウンター正面のテーブルは、店の雰囲気を観察するのにはもってこいの席でした。視界の端におそらく又吉氏が使っていたであろう窓際の席を捉えながら、注文もじっくり念入りに選びます。『火花』に出てきたチーズケーキを頼むと、ミーハーな又吉ファンに見られるのじゃなかろうか。そこであらかじめ下調べをして評判が良さそうであった、バニラビーンズを使ったプリンを頼もうと若年の店員に声をかけます。
結局、『火花』に出てきたチーズケーキを
バニラビーンズのプリンは、品切れになっているということでした。夕方ですし、名物メニューですし、こういったこともあるある。そこでブレンドコーヒーとベイクドチーズケーキを注文です。注文したメニューが来るまでテーブルの上に書類を広げて仕事をしていますと、先程の店員がやってきて、もし机が狭ければ隣の机をくっつけて使いますか?と提案をしてくれました。意外に広いという印象の店内をしっかりとカバーして、気配りをしてくれている。カウンター席ではなく隅っこの席に陣取っていたという又吉氏も、同じような印象を受けたのではないですかね。
さて、先程注文したベイクドチーズケーキとブレンドです。とてもシンプルで、飾りの付け無いケーキと珈琲。ケーキの味も決して雄弁ではないのですが、ほのかなレモンの風味が食欲をそそります。ホロホロでもしっとりでもない、立場表明を拒むような食感のベイクドチーズケーキ。
ブレンドも近頃の喫茶店に比べると、おとなしい味です。ネルドリップで淹れた珈琲らしく、口当たりにふっくら厚みがあるのですが、全体の印象が落ち着いています。580円のブレンドでおかわりは300円で注文できるようですので、ついつい会話が白熱して滞在時間が長くなってしまっても安心ですね。
武蔵野珈琲店の雰囲気を考える
仕事終わりに立ち寄る客もいるのか、しばらくすると店内の席がポツポツと埋まってきました。書き仕事を切り上げて、勿体つけて少しずつ飲んだ珈琲の残りを一気に流し込み、お会計ののち退店しました。店に行く前の予想では、文学作品を執筆できる厳かな雰囲気のカフェだろうと考えていましたが、実際のお店には敷居の高さがほとんどなく、地元の奥様方が世間話を愉しんでいる姿もありました。ただ、店内のクラシックBGMが話し声を少し控えめにさせるよう働きかけ、よそのテーブルの会話との間には仕切りを作ってくれます。作業に没入していれば、周囲の雑音などはほとんど耳に入らないでしょう。
そしてバニラビーンズのプリンや、メニューで異彩を放っていたアイリッシュ・コーヒー、それから究極的にはこのお店を開いたマスター自身についてなど、興味をひかせる”深み”もあるお店だろうと感じました(武蔵野珈琲店のホームページの多彩なコンテンツを見れば共感して貰えるでしょう)。行き届いた店内への気配りは、『火花』の受賞直後に一時的に又吉ファンが殺到していた状態があったとしても、きっとうまくさばいて、変わらず営業していたのだろうなと思わせるのに充分でした。又吉氏の新作『劇場』の新潮掲載を3月7日に控えて、再び又吉フィーバーがおこる可能性がありますが、それでお店の良さが失われてしまうという心配は、全く必要無いでしょう。
それで、記事のタイトルにも据えた感想について。武蔵野珈琲店の大きな窓から下を見下ろすと、七井橋通りの混雑する人の流れが、絶えず動き続けているのがわかります。その七井橋通りにありながら、武蔵野珈琲店の店内には不思議な落ち着きが。かといって下界からの客人を拒んでいるかというと、そうでもなく、うまくさばいてしまう懐がある。
芥川賞に選出される作品というのは、不変たる文学的価値を追求することは勿論ですが、同時に変わり易い世相を反映していなければならない。俗世と無関係にならず、隣接していることが重要。なんだかこういった立ち位置は、七井橋通りの混雑の上に、川の流れを分つ浮き石のように存在している武蔵野珈琲店とも似ているのではないですかね。
芥川賞受賞作は、ふさわしい場所で生まれるべくして生まれた、ここまで言ってしまうと、言い過ぎになるでしょうがね。
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