「西荻窪の有名店」という煽りには、騙されたことが何度かあります。「有名店」に行ってみると、あまり行き届いていない内装にどこでも頼めるようなメニューが出てきます。また、雑誌の特集などを見て「有名店」を訪れた客の不満足が店内に充満しており(なにしろ「有名店」の店内で料理への不満を口に出すなど、自殺行為じゃないですか)、重苦しい食事の時間に、けっこう強気に設定されたお値段を支払って帰るのです。
これは完全に、「有名店」を祭り上げる雑誌などの責任でしょう。特に西荻窪は、吉祥寺などと比べると雑誌などの特集が少なく、ライターの西荻窪の店に対する知識水準がそれほど高くありません。必然、たまの西荻窪特集では先例に倣って老舗店が有名店として持ち上げられるだけで、西荻窪特集は新規開拓もなくお茶を濁すように終わってしまうのです。
また、西荻窪駅が駅前開発と無縁であることも、老舗店の「有名店」化に拍車をかけているのかもしれません。代わり映えのしないメンツが街の中心にあるので、もう住民の側としても老舗店でいいやという姿勢になってしまうのでしょう。こうなるとますます「老舗店=有名店」は不動です。
ということで、「西荻窪の有名店」には端から期待せず、数ヶ月に一回経験値的な意味で暖簾をくぐるようにしています。今回のお店は、そんな「有名店」ローテーションの一回です。
坂本屋の店構えは、どこからどう見ても普通の街の定食屋です。店の外には時代を感じさせる食品サンプルがあり、ラーメンからオムライスから酢豚からジャンルも多彩な料理を提供していることが見て取れます。普通の定食屋との大きな違いは、休日になるとこの店の前に長々と行列ができることです。行列の主体は地元の人間ではなく、明らかに他所からやってきた若者達で、カップルで列に並んでいるという光景も珍しくはありません。
この坂本屋は特にカツ丼が有名で、dancyu誌で料理評論家の山本益博氏が、「日本一のカツ丼」と評したことで行列のできる有名店になったそうです。今なおdancyuの坂本屋推しは存在するらしく、行列に並ぶ客はリピーターより一見さんが多そうでした。不安ながらも、運ばれてくる日本一のカツ丼の味を(主に悪い方向に)予想する楽しみに浸ります。
最初に目に入ったのは、いかにも定食屋の域を出ないグリーンピース。カツの上の卵が半熟で、個人的な好みでないために期待値が下がります。カツを味わうときには必ず行う、衣と肉の境界を判別するための「甘噛み」。肉に歯が到達する直前で、衣の食感と味の染み具合を計るはずでした。
ところが、肉は衣と一体になって、一噛みでさっくりと切れてしまったのです。かといって、脂身ばかりのボロボロの肉かと言えばそうでもなし。まぎれもなく肉を噛んでいる感触です。衣と一体になって切れた肉の間に、半熟の卵がうまく入り込みます。そしてパン粉のよい香りが、後から漂ってくる。ここまでのシナリオが用意されていたのです。
なるほど。なるほど。これは確かに、前情報が無くふらりと入った定食屋でこれほど精緻な味のシナリオに出会ってしまったら、日本一と評してしまっても仕方が無いと感じました。このお店の全てが行き届いているわけではない。付け合わせの味噌汁だって、このカツ丼を最高に引き立たせるものではない。そういった意味で、ミシュランがこの店にやってきたら星はつかないでしょう。
しかし、カツ丼という小世界の中で起こるシナリオについては、まぎれも無く確かな風味体験なのです。嫌なところを見つけようとしても、見当たらず。けれどもこの店のカツ丼が尖って良いところを見つけようとしても見当たりません。つまり、カツ丼という料理は肉と衣と卵と、この組み合わせで何の過不足も無く完成しているのです。そのバランスの最も整ったものを、この店が提供しているのだと感じました。
さて、坂本屋のカツ丼が日本一と評された、その理由ですが、冒頭に書いた西荻窪の有名店事情も関係しているのではないかと穿った見方をします。
つまり、この西荻窪で「有名店」であると祭り上げても、きっとそうした言い回しに騙されたことのある人は、「西荻窪の有名店」としてしか認識しない。そこで、オオカミ少年的状況から人々に耳目をそばだててもらうために、「西荻窪」という括りを飛び越えて「日本」が出てきたのではないでしょうか。
本当に日本一かどうかはわかりませんが、無二のカツ丼であるとは感じました。
コメント
[…] 西荻北銀座の、以前紹介した日本一のカツ丼屋坂本屋の丁度向かい当たりにある颯爽堂は、2009年オープンの比較的新しい店です。内装は非常に洗練されていて、照明の感じや棚の配置など、エキナカによくあるタイプの書店に似ています。 […]
[…] 2014年2月1日(土)に、テレビ東京の街情報番組『アド街ック天国』で西荻窪が特集されるそうです。西荻窪が特集されるのは3回目、前回は2004年7月であったということですから、10年ぶりの登場で街のランキングにどのような変化が起こるか、非常に楽しみです。 さて、2004年のアド街ック天国ランキングで14位という順位を取った街の名物洋食店「キッチン キャロット」。アド街ック天国のみならず、西荻窪がメディアに紹介される度に、たんめんの「はつね」、カツ丼の「坂本屋」等と一緒に、必ず紹介される面子に入っていました。そのキャロットが、今月頭に突然閉店を知らせる貼り紙を店の前に出し、営業を辞めてしまったようです。 […]