三大湧水池で、メタセコイアを眺めるのなら善福寺公園です。
過去記事:善福寺公園のメタセコイア チュロスの林
メタセコイアの幹のもつ生命感、樹高の高さ。そして一度は日本から失われた種が、時を経て再び戻ってきたというシナリオの舞台として。善福寺公園のもつ秘境感はそれらを引き立たせます。しかし、「こと冬において」メタセコイアの美しさを浮かび上がらせるのは、冬空の色を反映して鏡のようになった井の頭池だったりします。
わざわざ遠くからこのような寂しい景色を眺めにくる人間は、そうそういないので、冬の井の頭公園の客層は地元の方の比率が高いように見えます。他の季節とは異なり、公園で完全な自分スペースを見つけることも可能です。
しばらく池に映った並木を眺めていると、この景色を何かに喩えたいという気分になってきます。池の周りにそびえ立つメタセコイアの樹は、空の色を剥ぎ取るブラシのようなものでしょうか。
あるいは、井の頭池全体を眼球に喩えると、メタセコイアの並木は睫毛のように見えるかもしれません。
並木を睫毛に喩える表現は、どこかからの借り物ではないかと思っていましたが、先日その元の本に思い当たりました。井の頭公園のすぐそばに住んでいる漫画家、大島弓子氏の作品で、近くから眺めた愛猫サバの眼球を並木と喩えていました。
夏のお話で、池はどこにも出てこないのですが、氏の漫画で登場する公園はほとんど井の頭公園がモチーフですから、あるいはイメージの熊手のどこかに引っかかっているかもしれません。
井の頭池の魅力を、一つ発見しました。訪れた人を『喩えたくなる病』にすることです。
その後ネットの情報などをたよりに、大島弓子氏のどの作品に登場したエピソードだったか調べましたが、『アンブラッセ』という作品のようです。こちらの作品集に収録されているようですので、紹介を。
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